その一「鳥海山の巨大な悪鬼説」
慶雲(704〜708)の暮れ、28m余りの一頭三面六臂の悪鬼が子分を引き連れ、鳥海山より庄内地方一帯に悪臭を吹きかけ、暴れ回った。
そのため家は壊れ、疫病が蔓延し、亡くなる者の数は幾万人にも及んだ。そこで出羽国を挙げて羽黒本社に祈りを捧げると、
羽黒山の神様である玉依姫命(たまよりひめのみこと)が、秋田県山本郡の郡司の娘に憑き、「神前に種々物(くさぐさのもの)を捧げ、
12人の験者を着座させて一か所にうずくまらせ、雌雄(陰陽)の加持を修しなさい。また松明を堅く縛め、悪の18種になぞらえて鬼形に象り、
これを焼き尽くしなさい。往古、諸々の神が高天原に集って日本国を分けられた時、東路より陸奥国までは羽黒山に遣わされました。
これより天地東西南北の堺に方尺棒を指し、すみやかに先祖の霊を祀り、鬼を日本の外に追い払えなさい」と告げた。
国人がこの神託に従って斎行すると、悪鬼はたちまち退いたという。
その二「文武天皇の追儺行事説」
慶雲3(706)年、疫病が広く流行したため、第42代文武天皇(692~707)が追儺(ついな)行事を行い、 病気や不作を鬼の仕業として追い払ったことに起因するという。
その三「蜂子皇子の焼き払い説」
開祖の蜂子皇子は都よりたずさえてきた五穀の種でこの地に農耕を広めたが、ある時、田んぼに入った農民が原因不明の熱病でばたばたと死んでしまった。 そこで皇子が手向にある聖山に籠って願をかけたところ、百日目に「悪魔を焼き払えよ」とのお告げがあった。それに従い網と綱でツツガ虫(悪鬼)に見立てた大きな松明を作り、 火をつけて焼き払うと、疫病はたちまち鎮まったという。